大久保山城

別名 大久保城  付近住所 京都府宮津市万年2 現在 桜山児童遊園地
2009/5/4 案内板アリ 日本城郭大系


小倉氏  大久保山城は天神社裏山から智源寺裏山にかけての尾根筋にあったと思われるが、幕末には島崎砲台築造の土取り場となり、明治期には本荘神社の境内地が開かれ、近年はさらに本丸跡と思われるところに市の水道施設が造られるなどして大いに山容を変じた。
 比高30メートルたらずの低い丘陵に、南を主郭に北にのびた戦国末期の山城であった。山腹山下は水脈に恵まれ、南東の八幡山城と並んで、宮津川下流の沖積平野のまだのびていない時代に、海城として重要な役割をもっていたものと思われる。
 城主は近世地誌類に小倉播磨守といい、或はその配下野村将監という。恐らくその何れもが真実であろう。小倉氏は丹後守護職一色氏の在地の上級の被官である「奉行」の一人であった。かつて京都の守護屋形にいた小倉氏がここにいう小倉氏と同じ家系であるのか、又いつ丹後に下ったのか詳らかでない。
 この城の終末の時期は、恐らく天正6年(1578)織田信長が細川藤孝・惟任光秀らを派遣して、丹後攻略をほぼ終えたころであろう。かつて大久保山下には小倉氏菩提寺盛林寺があった。近世初めに上宮津谷に移されて現存するが、寺蔵過去帳・位牌の中に、天正6年10月17日小倉播磨守一洞居士、及び同月28日同人妻妙栄禅尼のものがあるのが、その終末時代を示すものであろう。